碉楼の歴史

碉楼の出現は開平の地理的環境と社会の治安環境と密接に関連している。

開平は海抜が低く河川が網状に流れている。そのため治水に欠陥が発生すると、台風が来るたび水害が発生していた。
それに加えて開平は過去、新会・台山・恩平・新興4県の県境に位置し、「四不管」(誰の管理も行き届かない土地)と言われるほど治安が悪かった。よって清代の初め頃には開平人民はすでに碉楼の建築を開始し、これを水害と防犯に利用していた。

アヘン戦争後、アメリカ、カナダ、オーストラリアで金鉱が見つかり、加えてアメリカは西部開発のため、大量の労働力を必要とした。このため多くの開平人民が契約労働者という形(実際は奴隷労働)でこれらの国々に渡った。
いわゆる「苦力(クーリー)貿易」というやつです。黒人奴隷が廃止されていく時代の流れの中で、中国人に白羽の矢が立ったわけですね。

非人道的な扱いの中、異国の地で死んだものも少なくない。幸いにも生き残った人は故郷に錦を飾るべく帰国し、血と汗で稼いだ金で土地を買い、家を建て、妻を娶り、普通の人間としての夢を実現した。また異国の地に留まったものは華僑となり故郷に送金を行った。
当時の開平「郷土志」の統計によると開平華僑の送金額は125万米ドルに達し、これは全華僑の送金額の8分の一強を占めるほどであったそうです。

中華民国時代に入ると、国内情勢の悪化という現実が彼らに容赦なく立ちはだかった。当時の開平には土着の匪賊(盗賊)が横行しており、「一つの足跡を見たら三人の賊がいると思え!」と言われるほどに治安が悪かった。
開平は水陸共に交通の便がよく、また比較的裕福な帰国者や海外華僑の親族が多かったため、犯罪を誘発していた。ラフな統計によれば、1912年(民国元年)~1930年の間、71件もの比較的大きな強盗事件が発生し、殺害者数は100人以上、奪われた牛は210頭以上、強奪された財産は計上不可能なほどであったとのこと。
このような状況なので、華僑は里帰りしても自宅には宿泊できず、郊外や親戚の家に宿泊し、しかも宿泊地点を頻繁に変えなくてはいけない状況であった。

1912年~1926年の間に学校への強盗は8回もあり、教師や生徒100人以上が誘拐されていた。
しかし1922年12月に匪賊の集団は赤坎の開平中学を襲うも、鷹村の碉楼のサーチライトに照らされ各地から集まった人民により撃退され、校長と生徒17人は無事救出された。
華僑はこの話を聞いて喜び、碉楼には匪賊を防ぐ効果があると考えるようになった。その後、華僑は自らの衣食を切詰め資金を集めて故郷に送り、碉楼を作らせた。

その華僑の豊富な資金力と海外からの絵葉書や写真を基に、西洋建築のテイストを加味した開平碉楼が続々と建築されたものと思われる。
「××村にはあんなかっこええ碉楼ができたから、おらっちはもっとすげえの作るべ」
みたいな感じだったんじゃないかなぁと思います。

この建築ラッシュは太平洋戦争が始まり、華僑からの送金が不可能になるまで続いた。

その後も碉楼は匪賊対策、冠水対策に利用されるのみならず、外敵(日本のことですな)との戦い、革命時期には共産党の活動場所にも利用された。

共産党政権の発足後、華僑本人の住居目的で建てた「居楼」の所有者の殆どは海外に移住している。

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